ところで、社会学者のデュルケムは、『宗教生活の原初形態』において、儀礼という様式化された行動が、集団を作り出し、また集団を持続=再生産するのに不可欠であることに指摘している。
儀礼とは、集団の外から見れば、およそ何故そんな行為に意味があるのかわからない(ほど細かく定められている)ものなのだが、集団の内にいる人からすれ ば、その細かい所作のひとつひとつが(時に「神聖なもの」であるほどに)重要であり、自分がしくじれば(外から見れば不可解なほどの)恐怖や後悔の念にか られ、また他人がその儀礼に従おうとしていないところをみると、「冒涜された」かのような激しい怒りを覚えるものである。この点にデュルケムは注目したの である。
宗教で重要なのは、その教義(教え)が含み持つ思想などではなく、一見(外部からは些末事に見える)宗教儀礼の方であり、神に対する冒涜は、実は儀礼に対する違反への怒りに他ならない。
同じ儀礼を行う者が仲間であり、違う儀礼を行うものは仲間でない。進化心理学者なら、そこに「裏切り者探知モジュール」の発動を見て取るだろう。
実際、詳細に定められた儀礼は、習得するのに少なくないコストがかかり、そのため集団に属した振りをして、集団維持のコストを負担せずに利益だけを持ってこうとするフリーライダー(ただ乗り野郎)を見分けるのに、きわめて都合が良い。
デュルケムは『社会分業論』においてすでに、「犯罪」が果たす社会的機能について、次のような説を述べていた。
「犯罪」において、社会的に重要なのは、多くの人々が、その行為に対して「怒りを覚える」ことである。
すなわち、「犯罪」に対して人々の内に生じる怒り(義憤)が、その社会において何が正しく何が間違っているのかについての、人々に共有されてきた境界を再定義し、また人々の「道徳心」を賦活し、それによって社会の凝集性を生み出す。
デュルケムの儀礼論は、この延長線上にあることは明白である。
儀礼とは、集団の外から見れば、およそ何故そんな行為に意味があるのかわからない(ほど細かく定められている)ものなのだが、集団の内にいる人からすれ ば、その細かい所作のひとつひとつが(時に「神聖なもの」であるほどに)重要であり、自分がしくじれば(外から見れば不可解なほどの)恐怖や後悔の念にか られ、また他人がその儀礼に従おうとしていないところをみると、「冒涜された」かのような激しい怒りを覚えるものである。この点にデュルケムは注目したの である。
宗教で重要なのは、その教義(教え)が含み持つ思想などではなく、一見(外部からは些末事に見える)宗教儀礼の方であり、神に対する冒涜は、実は儀礼に対する違反への怒りに他ならない。
同じ儀礼を行う者が仲間であり、違う儀礼を行うものは仲間でない。進化心理学者なら、そこに「裏切り者探知モジュール」の発動を見て取るだろう。
実際、詳細に定められた儀礼は、習得するのに少なくないコストがかかり、そのため集団に属した振りをして、集団維持のコストを負担せずに利益だけを持ってこうとするフリーライダー(ただ乗り野郎)を見分けるのに、きわめて都合が良い。
デュルケムは『社会分業論』においてすでに、「犯罪」が果たす社会的機能について、次のような説を述べていた。
「犯罪」において、社会的に重要なのは、多くの人々が、その行為に対して「怒りを覚える」ことである。
すなわち、「犯罪」に対して人々の内に生じる怒り(義憤)が、その社会において何が正しく何が間違っているのかについての、人々に共有されてきた境界を再定義し、また人々の「道徳心」を賦活し、それによって社会の凝集性を生み出す。
デュルケムの儀礼論は、この延長線上にあることは明白である。